日記

思った事など

シン・エヴァンゲリオンについての個人的考察・評論

初めに

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の公開によって様々な考察や評論がなされてきた。

しかし、納得いかないものも多かったので、自分なりの考えをまとめてみたい。

筆者は、エヴァ世代ではなく、大学時代にエヴァ(TV+旧劇)を観て感銘を受けたが、ドハマりすることは無かった。セカイ系なら「イリヤの空」「なるたる」といったものに触れていたからだろうか、少し自分に失望したことを覚えている。幼少期よりアニメは宮崎駿くらいしか見ておらず、小説とゲームが好きで、筒井康隆小島秀夫の信者であった。

新劇場版に謎は無いということ

イスカリオテのユダ」「カヲル司令」といったのは物語の謎というよりは、作劇上の味付けであり、物語の本質とは無関係である。

エヴァンゲリオン新劇場版が、何の物語であるかは、所信表明に全て表されている*1

抽出すれば、エヴァンゲリオンとは①疲弊する閉塞感を打破したい、②生きていく心の強さを持つという願いを具現化し、③何度も同じ目にあいながら立ち上がり、④わずかでも前に進もうとし、⑤曖昧な孤独に耐え、他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の物語である。

技術的には、①監督の正直な気分をフィルムに定着させ、②アニメーションの本来の面白さを伝達させ、③停滞したアニメ業界に志を示し、④中高生のアニメ離れを止める、という4つの目標を掲げていた。

物語の主題は5つであり、技術論的なテーマは4つとなる。

技術論的なことは筆者の範疇では無いので、本稿では扱わない。脚注にて、参考になるサイトを提示しておく。*2

次章では、新劇場版で扱うと宣言した5つの主題について考えてみる。

閉塞感からの解放-TV版EDについて-

庵野監督が用いる閉塞感の意味とは、ラジオ*3を手がかりに考えていけば、自分で決めた限界から外に出ず、内なる世界に閉じこもることである。その点でTV版では、セル画というアニメーションからの解放とともに、碇シンジが自らを肯定することに気が付くことで物語が終わる。

旧劇場版では、人類の終焉にあっても、他者をおそれ、拒絶しようとして、アスカの首を絞める。その時、アスカに頬を撫でられることで、他者の存在を肯定して泣きだしてしまう*4

旧劇場版では、「他者は存在しても良いのかもしれない」という漠然とした観念にたどりつき、視聴者には現実に帰れというメッセージを突きつける事で物語は終了した。

自我と他者 マリの正体について

エヴァンゲリオンにおいて、主要キャラクターは全て庵野監督のアルターエゴである事は指摘されてきている。そして、マリはカラーのスタッフによって創造されたキャラクターである。マリ=安野モヨコであるとの指摘もユニークではあるが、もっとシンプルに、マリ=カラーのスタッフ達と解釈する方がより自然であろう。

エヴァンゲリオンという庵野監督の自我=自意識の物語に、空から乱入してきたのがマリであり*5、その存在が無ければエヴァンゲリオンを完結させることが出来ない存在だったのである。

なぜ、マリがシンジを導くのかと言えば、これ以上の答えはないし、作劇上に2人が接近する理由が明らかではないので、多くの人が混乱したのは無理からぬ事ではないだろうか。その意味では、結局のところ、エヴァンゲリオンは最後まで作劇では破綻していたと言える。

現実か虚構か、二者択一を超えて

多くの人が混乱をしながらも、ラストシーンで一種の解放感、卒業感を持って終われたというのは、演出の巧みさと言わざるを得ない。一部の解説では現実へ帰れというメッセージは変わらず、それどころか結婚をしたリア充からの説教として、批判するものもあったが、果たしてその批判は妥当だろうか。

マリ=安野モヨコ説であれば、結婚して満ち足りたリア充がお前も早く嫁でも見つけろという暑苦しいメッセージにしか見えなくなってしまうだろう。しかし、マリ=安野モヨコ説であれば、重い鬱を患っていた安野モヨコ自身のキャラクターと、過度に楽天的なマリというキャラクターは重なるだろうか。また、庵野秀明の実家付近ではなく、自身が安野モヨコと出会った場所などをラストシーンにしても良いはずで、自身のルーツを出す必然性はない。

むしろ、自我の物語が庵野秀明の生誕地で終わり、そこから並走してくれる他者=カラーと共に駆け出していくという方が、整合性があるだろう。

旧劇場版に引っ張られて、現実に帰れとのメッセージを受け取ろうとした人も多かったようであるが、そもそも実写でありながら、現実には存在しない列車、建物が存在する宇部新川なのである。虚構でも救済され、現実と虚構が入り乱れた世界を駆けだしていく事で、現実に帰れというようなメッセージではなく、現実も虚構も内包しながら軽やかに閉塞感から解放される可能性を示唆しながら物語は幕を閉じたのである。

 エヴァンゲリオンは繰り返しの物語である。とすれば、物語からの離脱以外に結末はあり得ない。かくて、碇シンジはループの世界=エヴァンゲリオンから解脱し、庵野秀明の自我の閉塞を巡る物語は、現実と虚構の二項対立を乗り越えたのである。

*1:全文はリンク参照。

庵野秀明総監督『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』所信表明 : みんなのエヴァンゲリオン(ヱヴァ)ファン

*2:②アニメーションの本来の面白さという点について、作画監督へのインタビューがある。https://www.tbsradio.jp/575053

③特撮との融合については、ジブリ会報での氷川さんの「Q」の評論も参考になる。

https://www.ghibli.jp/shuppan/np/007842/

④新劇場版が中高生のアニメ離れへの対応となったのかは不明である。「序」「破」を通じて、公開当時の中高生に対して、エヴァンゲリオンという作品を広めたのではないかと推察できるが、決定打のような影響を与えたかは疑問である。Netflixのような配信サイトで気軽に見れる環境の方が大きいかもしれない。

*3:

庵野秀明監督による「閉塞感からの解放」「自分を認めるということ」の説明 文字起こし - 日記

*4:以下のサイトの解説がわかりやすい。

栞:エヴァ支援・或るエヴァの唄の話 - livedoor Blog(ブログ)

旧劇場版解説 | アフロ流

もののけ姫とエヴァンゲリオン(宮崎監督と庵野監督)

*5:シンの冒頭で歌う「真実一路のマーチ」で、幸せは空から降ってこないと歌いながら、実際には、空から降ってきたマリに救われるのである。一度目は出会いの時にS-DATの曲数が増え、2回目はイマジナリーに取り残された時である。